Fisherman’s Memoir #9

第一章

遠洋マグロ漁船に乗った10年の物語

惜別の海

その後、グァム島に3度水揚げをして、船は故郷の港に帰港した。
故郷の港に接岸する時、一番綱を陸で受け取るのは必ず船の親方である祖父だった。
そして、その一番綱を岸壁で待つ祖父に向かって投げるは僕だった。
しかし、その時は違った。
岸壁に立っているのは、親戚の伯父だった。
荷物の陸揚げを終えた船員は、家族と共に帰宅の途についている。
僕は機関長補佐のため、全船員が荷揚げを終えたのを確認し全員が下船した後発電機を停止して、全ての弁が閉まっているのを確認して下船し帰宅する。
機関長が「ケイジ、あとは任せたぞ」と僕に言い船から陸に上がった、僕は「はい」と答え全ての船員が下船するのを待った。
全船員が下船したのを確認した船頭が、「機械止めろ」と僕に言った。
僕は機関室に入り、発電機を停止した。
発電機が止まり、機関室は真っ暗になった。
機関室内にはそれまで回り続けていた機関の熱気が充満していて、発電機を止めた瞬間、熱気に満ちた機関室内は静寂に包まれた。
真っ暗闇の機関室の中を、懐中電灯を持って全て弁の確認をしている時「じいちゃん、どうしたんだろう?」と思った。
機関室入口に鍵をかけて、岸壁に上がった。
岸壁に上がると、伯父が僕を待っていて
「おかえり」と声をかけた。
僕は「うん、ただいま」と答えた。
「親方だがな、体調が良くなくて今日これなかったんだ」と、伯父は僕に言った。
僕は「そうなんだ」と答えた後「ありがとう。帰ってじいちゃんの様子見てみるよ」と言った。
伯父は「そうだな、早く帰ってやれ」と言った。
自宅に着き、すぐに祖父の部屋に行った。
祖父は目を閉じたまま、布団に横になっていた。
僕は「じいちゃん、帰ったよ」と声をかけた。
すると祖父はゆっくりと目をひらき、僕を見た。
「ケイジか、帰ったのか。」
「ごめんな、じいちゃん縄取りにいけなくて」と、僕に申し訳なさそうに微笑んだ。
「なんの!じいちゃん気にすんなよ。それより早く元気になってよ」と僕は言った。
祖父は「そうだな」と言って、僕を見つめながら「じいちゃん、眠くてな・・・」と言い目を閉じた。
僕は居間に行き、母に「じいちゃん、大丈夫なの?」と聞くと。
母は「お前のじいさんだ!簡単にはくたばらないよ!」と、僕を励ますように、そして安心させるように力強く言った。
僕は「そうだな」と答えた。
僕の部屋は、祖父の部屋の隣に位置していた。
その日の夜中、部屋にいると声が聞こえてきた。
「ケイジ!ケイジ!」と、僕を呼ぶ声がする。
祖父の声だった。
急いで祖父の部屋に行くと、薄暗い部屋で布団に横になり、目を閉じたまま手を空中に上げ何かを掴む仕草の祖父の姿があった。
祖父の手を見た瞬間「じいちゃん、随分痩せたなぁ」と思った。


僕はその手を握り「じいちゃん、ここにいるぞ。」と言った。
祖父は僕の手を握り返し「ケイジか?」と聞いた。
「そうだよ、ケイジだよ」と僕が言うと、目を閉じたまま微笑んで「そうか、そうか」と言って、安心したように眠りについた。
それは、毎晩続いた。
祖父は、寡黙で多くを語らず、人と交わることが苦手で優しくて折れない心を持った人だった。
子供の頃、兄が病弱だったため「うちの後継ぎはお前だぞ」と、常に僕に言っていた。
海が穏やかな日は、僕がまだ小さな頃から僕を連れて出漁した。
祖父は小さな船で、一本釣りの漁師をしていた。
漁に出る時、じいちゃんはいつも朝ごはんを作ってくれた。
いつも焼いた食パンにマーガリンを塗り、その上に砂糖をまぶした砂糖マーガリンパンだった。
じいちゃん特製パンだ。


僕が小学校に入学した時、入学祝いに小さな木製の船を作ってくれた。
小さな櫓漕ぎの船で、「けい丸」と書かれていた。
それを見た時、僕は飛び上がって喜び、喜びの余り転んで怪我をしたのを覚えている。
僕が高校生の頃、喧嘩をして警察に逮捕された時、僕を警察署に僕を迎えに来てくれた。
二人で帰る途中、じいちゃんは僕に「喧嘩、勝ったのか?」と聞いた。
僕は「勝ったよ」と答えた。
すると祖父は「いいか」と前置きしたあと
男はな強くなければ男じゃないんだ。だがな、優しくなければ男である資格はないんだぞ」
と言った。

1週間後、船は出港の日を迎えた。
その時ほど、出港したくないと思った事は無い。
祖父の事が、気になっていた。
なんとなく、2度と会えない気がしていた。
出港の前、船に向かう前に祖父の部屋に行った。
寝ている祖父に「じいちゃん、今日出港するからな」と声を掛けた。
閉じている目を静かに開け、細い声で「いい漁をしてこいよ」と僕に言った。
僕は「任せろ。大漁してくるから!」と言って祖父の部屋を出て船に向かった。
船は出港した。
時期は9月を過ぎた頃、日本近海での本マグロ漁のシーズンを迎えようとしていた。
日本近海操業のため、その航海にはフィリピン人船員は乗船せず日本人船員8名で構成された。
本マグロの時期には少し早かったが、その年は日本近海の潮流は黒潮の蛇行が早かった。
そのため、本マグロを狙いに宮城県の金華山沖を目指した。
出港してから5日で漁場に到着し、操業を開始。
一度の操業で、枝縄1500本に対し本マグロが1~2尾釣れていれば大漁だ。
以前も書いたが、近海物本マグロ(クロマグロ)は“海の黒いダイヤ”と呼ばれる。
揚縄が開始され、幹縄が巻き上げるラインホーラーの先にサイドローラーがあり、サイドローラーを縄先(なわさき)と呼ぶ。
縄先を担当している船員が、幹縄の張り具合を掌で叩きながら幹縄の感度を確認する。
何かが枝縄に掛っていれば、物理的に仕掛け自体が重くなり幹縄が張る。
海から巻き上げられる幹縄に最初に触れるのがこの縄先担当で、そのため縄先を担当している時に本マグロが釣れると、縄先担当に賞金が与えられる。
その航海は、40キロ以上の本マグロ1本当たり3万円の賞金が付いていた。
そして船員の間で、その賞金を賭ける。
一番本マグロを獲った者が、その航海での賞金を総取りする。
1回目操業、僕に縄先担当の番が回ってきた。
その日の操業は、ビンチョウマグロが一本とクロカワカジキが一本で漁の内容は良くなかった。
僕は左手で幹縄を叩き、縄の感度を確認した。
すると左手に “ビンッ”と幹縄の張りを感じ、慌てて足元のラインホーラーのブレーキを踏んだ。
僕の後にいるボースンが「そりゃマグロじゃねぇか!?」と叫んだ。
僕は慎重にラインホーラ―のブレーキを調整しながら、ゆっくり幹縄を巻き上げていった。
すると幹縄が明らかに、船底方向に動いた!
僕は、ラインホーラ―から幹縄を外し「商売!!!」と叫び、ボースンに幹縄を渡した。
甲板はワッと賑やいだ。
ボースンが幹縄を、人力でゆっくり手繰り寄せ枝縄まで来た。
枝縄はボースンから兄に渡され、兄が枝縄を手にした。
すると兄が「銛(もり)を用意しろ!マグロだ!」と叫んだ。
ブリッジから船頭が飛び出し、ブリッジの横で銛を構えた。
僕は、縄先から海面を見ていた。
海中に黒い魚影が見え、徐々に海面に近づいてくる。
海面にマグロの頭が出た瞬間、船頭がマグロの頭を目がけて銛を打ち込んだ。
グワッシャ!
銛はマグロの頭に命中し、マグロは激しく暴れ辺りの海面はマグロの血で赤く染まった。
「こりゃデカイぞ!!」と、誰かが叫だ。
マグロが舷門までくると、マグロの頭にガッチリと鈎が掛けられた。
ドラム缶のような、黒い魚体が甲板に引き上げられた。
魚体は、黒く光り輝いていた。


僕は「よっしゃぁぁ!」と、拳を突き上げ叫んだ。
その航海、僕が縄先に行くと不思議なくらい本マグロが獲れた。
12回で操業を終え満船。
大漁だった。
僕はその航海、縄先で合計32本の本マグロを獲り、僕の賞金は96万になりダントツの一位だった。
水揚げをするために、宮城県塩竃市に入港をした。
水揚げ高は3800万だった。
大漁だ。
水揚げが終わり、魚層の清掃をしていると船頭からブリッジに来るように言われた。
ブリッジに行くと兄と船頭がいた。
船頭が僕に向かって「お前達二人は、今からすぐ家に帰れ。じいちゃんが死んだ」と言った。
突然のことで頭の中が整理できなかった僕はつい「何言ってんだ、今忙しいんだよ!」と、船頭に言い返した。
兄が「お前、いいのか?」と聞いたので「いいもクソもあるか!」と言ってブリッジを飛び出して、魚倉を掃除する作業を続けた。
沖で操業をしている時、何となく気付いていた。

「もしかして、じいちゃんが俺に大漁をさせてくれてるんじゃないかな?」

清掃作業を続けながら、じいちゃんの顔が脳裏に浮かんだ。
子供の頃、僕を不憫に思い優しくしてくれたこと。
鬼のような顔で、殴られたこと。
魚の仕掛けの作り方を教える時の、厳しい顔。
櫓の漕ぎ方を教えてくる時の、嬉しそうな顔。
僕がマグロ船に乗った時、自慢気で不安そうな顔。

魚倉の清掃作業が終わり、船にはひと時の休息が訪れた。
僕の顔に悲しみ出ていたのだろう。
それを見かけた兄が「お前、大丈夫か?」と僕に声をかけた。
「なぁ、じいちゃんいつ死んだんだ?」と僕が聞くと「操業1回目の日らしい」と兄は答えた。
「やっぱりな」と僕が言うと、兄は「ああ、やっぱりだな」と言った。
夜になり、誰もいない岸壁の先端に行った。
堤防の端に腰をおろし、静かな海を見ていた。
暗い海に向かってつぶやいた
「船のこと放って帰ったら、じいちゃん怒るだろ。だから俺帰らないよ」
暗い海に、街灯の白い光が反射してキラキラと光っていた。


「帰ったら、会いにいくから」
夜の静かな海が、滲んで良く見えなかった。
3ヶ月後、船は故郷の港に戻った。
岸壁に船が接岸する時、一番綱を投げようと綱を持って船首の一番先に立ち思わず岸壁にじいちゃんの姿を探した。
岸壁には伯父が立っていた。
家に帰り仏壇に手を合わせた。
じいちゃんの写真が立てかけられてあった。
食パンを2枚焼いてマーガリンを塗り、砂糖をまぶしてラップに包んだ。
それを持って、じいちゃんが眠るお墓に向かった。
じいちゃん特性パンの1枚のお供えして、もう一枚は僕が食べた。
「じいちゃん、美味しいよな。これ。」
お墓に向かって手を合わせ
「じいちゃん、ありがとうな。」
「俺、マグロいっぱい獲ったよ。じいちゃんのお陰で大漁だったよ。」
「じいちゃん、さようなら」

そう言って、立ち上がり帰ろうとした時。
冬の日差しの中を、風が吹いた。
「一人前の漁師になったな。よくがんばったな。これからも大漁しろよ」
じんちゃんが、そんなことを言っている気がした。

老朽の海

1991年の春。
僕は、遠洋マグロはえ縄漁船に乗って働くようになってから4年が過ぎ21歳になっていた。
すでに一人前のマグロはえ縄漁師になっていて、マグロ船での生活が普通の生活になっていた。
僕の漁師としての成長に合わせたかのように、乗っている船の老朽化は著しくなっていた。
船は、船体が鉄鋼で作られた鉄鋼船だった。
今、僕の手元にあるその船の写真があり、写真の下には昭和54年7月竣工記念と書かれてある。


1979年で、僕が小学4年生の時だ。
船の進水式の時、僕の頭を撫でながら「お前が将来この船の船頭だぞ」と、笑っている祖父の顔を今でもはっきりと覚えている。
船が進水してからすでに10年以上が過ぎ、海水に侵食された船体の腐食は激しく、海水を利用した冷却水用の配管の破裂が多発しエンジントラブルは日常茶飯事だった。
僕は機関長補佐として、破れた配管からの浸水を止めるための修理作業を機関長と2人で20時間近くしたこともあった。
この数年前から、遠洋マグロ漁船の船体素材は転換期を迎えており、鉄鋼船から繊維強化プラスチックで造ったFRP船が主流になっていた。
FRP船は鉄鋼船に比べ、船体の重量が軽く横揺れに対する復元力が高く転覆する危険性が低い。船体に波が打ち付けても衝撃を吸収する性能に優れている。そして、鉄鋼船に比べ軽量のため、燃料の消費量も格段に低く船の速度も速い。
船の速さを表す単位をノットという。
1ノットは、1時間に1海里を進む速さを表す。
1海里をメートルに換算すると1852メートルで、約1.8キロとなる。
僕の乗っている鉄鋼船の平均速度は8ノットで、それに比べFRP船の平均速度は約10ノット。
海流により±2ノットの速度さの差があった。
2ノットの船速の差が出れば、1日で距離の差は48海里(88,896m=約89キロ)の差がつき、鉄鋼船が8~9日かけて航行する距離を、FRP船は約6~7日で航行した。
前にも書いたかもしれないが、マグロはえ縄漁船におけるマグロの保存方法には2つのタイプがある。
マグロを瞬間冷凍し凍結状態で保存する凍結船と、保存する魚層に真水と海水をブレンドした保存水の水温を約-0.8~-1度で保存する生保存船。
凍結船の場合は、瞬間冷凍をしマグロを凍結するので保存日数がマグロの鮮度に影響を及ぼすことは然程ない。
しかし生保存の場合、保存日数が直接マグロの鮮度に影響してくる。
例えると、冷蔵庫でご飯を冷蔵と冷凍で保存した場合、1日冷蔵保存したご飯はまだまだ食べられるが、3日経つとさすがに・・・。
それに比べ、冷凍保存したご飯は数日間保存しても、電子レンジでチンすれば食べられるが、味がイマイチ・・・。
こんな感じだろう。
船の速度は、マグロの鮮度に大きく影響する。
そのため、鉄鋼船の水揚げ高(売上)はFRP船に比べて低かった。
その航海の漁を終え、和歌山県の那智勝浦町で水揚げした後、故郷の港を目指し航行している時だった。
僕が寝台で寝転びビデオを見ていると、当直をしている船員が僕のところに来て「船頭がブリッジ来いと言っている」と言われた。
僕は、TVとビデオの電源を切り、寝台を出てブリッジに向かった。
ブリッジに行くと、船頭と兄がいた。
僕は船頭に「なんですか?」と聞いた。
船頭はおもむろに「この船も古くなった、新しい船を造ろうと思うんだが」と、兄と僕に向かって言った。
船頭は続けて「それこでだ。新船が出来てからだが、兄貴に船長を任せて、俺は漁労長になろうと思う」と言った。
8人が乗り合う小さな船だ。
船長と言っても、一般船員に比べ船での地位は上がるが仕事の内容が変わるわけではなし、船頭が漁労長になっても現在の地位に変化はない。
しかし、兄貴が船長をするということは、次の船頭は兄に決定したと言うことだ。
すなわち、家業の跡継ぎは兄だと言うことを宣告されたのだった。
この時、次男として生まれた自分の運命を感じた。
子供の頃から、マグロはえ縄漁船の船頭になることが夢だった。
祖父が基を築き父が受け継いだ家業の跡継ぎになることが夢だった。
小学2年生の時の文集の“しょうらいのゆめ”の欄に「とうちゃんのようなマグロせんのせんどうになる」と書いた。
長兄である兄を従わせようとは思ってはいなかったし、考えもしていなかった。
ただマグロ船乗りとして、トップになりたかった。
船頭に“兄貴に船長を任せる”と言われた時のショックは、ものすごく大きかった。
そのとき、自分でも思ってもいなかった言葉が口ついて出た。
「兄貴が新船の船長になるなら、この船を俺にくれ。」
船頭は少し驚いた顔をしたが、すぐに厳しい顔になり僕を見つめて言った。
「それはでできない、この船は廃船だ。すでに廃船登録もしてある。」
そして父親の顔になり
「親として言うが。お前、兄貴を支えてやってくれないか」と言った。
僕は何も言い返せなかった。
うつむき、少しの間考えた。
ブリッジの中には、エンジン音だけが響いていた。
考えたというより、心の中で自分を納得させる言葉を探した。
「次男だから仕方ない。長男が跡を継ぐのは当たり前のことだ」
その言葉だけが、何度も何度も頭の中で繰り返される。
少し間があって、僕は全く納得していなかったがその場から逃げたい一心で「わかりました」と船頭に言いブリッジを出た。
兄とは目を合せなかった。
船尾に行き、群青色の海に白くのこる船の航跡をずっと見つめていた。


悔しさと虚しさが心の中で交差していた。
俺は、漁師になるために育てられた。
4歳か5歳の時だった、父に連れられ浜に行った。
父は僕を抱え上げると、海の沖に向って僕を放り投げた。
もちろん、僕は泳げない。
溺れそうになり、悶えている僕に向って
「漁師の倅(せがれ)のくせに!泳いでここまで戻って来い!」と、父は叫んだ。
泳ぎ方も教わってないので、溺れかかっている。
しかし、父は全く助けようとしなかった。
父が僕に向かって何か叫んでいるのはわかったが、何を言っているのか聞き取れない。
僕は泣きながら完全にパニックに陥っていた。
それでも父は、助けに来なかった。
バシャバシャと海面を叩いて足をバタバタと漕ぐと、身体が水に浮いて顔が海面から出ることに気がついた。
その泳ぎ方のまま、陸の方で待つ父に向って少しづつ泳いだ。
父の前まで来ると、海底に足が届くことに気がつき立ち上がった。
父はそんな僕の頭をなでながら
「お前はやっぱり漁師の子だ!!ガハハハハッ!」
と空に向って叫びながら笑った。
泳げるようになったことを父が祖父に伝えて以来、凪の日には祖父の船に乗せられイカ釣り漁や鯵釣り漁に行った。
僕は幼稚園に行っていない、島には幼稚園が無かった。
「ケイジ、今日は潮がいい。じいちゃんメバルの煮付けが食べたいからメバル釣って来てくれ。」とじいちゃんに言われると、僕は自分で釣りの仕掛けを作りメバル釣りに行った。
「じいちゃんとばあちゃんとお前の分、3尾でいいからな」と言われ
僕は「うん!釣ってくる!」と言って家を飛び出し、桟橋に行きメバルを釣った。
“3尾釣って来い”と言われると、僕は必ず4~5尾釣って帰った。
そすると、ばあちゃんは褒めてくれて近所の家に僕を連れて行き
「これ、うちのケイジが釣って来たんだ!食べてくれ!」と言って、ご近所さんにお裾分けをしながら自慢して廻った。
桟橋はL時型になっていて、潮の流れや陽の傾きにより魚のいるポイントは違う。
前日港の内側の桟橋の先端部で良く釣れたかと思うと、翌日の同じ時間に同じ場所で釣りをしても全く釣れない。
その日その日で釣る場所を変え、潮と陽の関係と水温によって魚のいるポイントや食い方が違うことを、誰に教わるのではなく体験することによって覚えていった。

僕は、“クソ!!!”と、思わず海に向かって叫んだ。
叫ぶと、少し気持ちが軽くなる気がして冷静になれた。
こういう時、僕の順応性の高い性格はとても便利だ。
単純ではなく、順応性が高いのだ!
少しの間、海を見つめながら「まあ、しかたねぇな!次男だし!」と自分に言い聞かせた後、
「夢が終わったわけじゃねーし!俺は親の作った船じゃなくて、自分で自分の船を造ればいいもんな!」と考え方を変えることにした。
家業を継ぐということはできないが、夢であるマグロ船の船頭になる方法はいくらでもある。
まだ終わったわけじゃなく、まだまだ途中なんだと思うようにした。
そこに兄が現れ僕が座ってるとなりに腰掛け、僕に向かって「悪いな」と言った。
僕は「なんのことはないよ、兄貴が船長なら俺は機関長になるよ」と返した。
兄は「そうか」と言ってその場を去った。

新船の海


1991年初夏、新造船の進水式を迎えた。
進水式を終え、そのままテスト航行を5時間程した。
ピカピカの船内は、繊維強化プラスチックの匂いがしていた。
テスト走行をしていると、海面からトビウオが跳ねていて新船を祝福してくれているようだった。
テスト航行を終え、船には大漁旗を掲げられた。


僕は初夏の快晴の海を切り裂きながら走っていく真新しい船を、俯瞰(ふかん)で感じた。
心が高揚し、自然と笑顔になった。
周りを見ると、船員は皆笑顔だった。
数日後、新造船は処女航海に出港した。
軽快なエンジン音を響かせ、それまで乗っていた鉄鋼船の揺れ方とは少し違う感じがした。
その頃には、自分の気持ちも整理ができていて
“できる限り、兄貴をサポートしてやろう!”
と思うようになっていたし
“まず目標である機関長を目指そう。覚えることは山ほどある!”
とも思うようになっていた。
船はフィリピン人船員のレンドンとエディーを乗船させるため、グァム島を目指した航行を続けていた。
フィリピン人船員は、太平洋南方海域でのメバチやキハダマグロ漁の時期(4月~8月)の間だけグァム島から乗船し、日本のマグロ漁船に乗船した。
航行して数日、いつもの様に機関長に付き添い機関室で仕事をしていた。
甲板に出て休憩をしている時、機関長と二人でタバコを吸いながら缶コーヒーを飲んでいた。
二人とも手はオイルにまみれで、真っ黒くなっていた。
その時機関長が「俺ももう身体が言うことを聞かなくなって来ている、そろそろ引退だ」と呟いた。
機関長は、父の兄であり僕の伯父だった。
父の実家は14人兄弟(本当は17人兄弟だったらしいが、幼少のころ亡くなったらしい)の大家族で、機関長は長男で父はその家の三男坊として生まれた。
父は母と結婚し、父は養子となり家業を継いだ。
「俺は今年いっぱいで引退だ。それまでお前はこの船のエンジンの癖を徹底的に覚えろよ。次の機関長は、お前だ」と言われた。
海は相変わらず群青色で、空はどこまでも青かった。


出港して5日目の深夜のことだった。
僕は、機関長補佐なので機関室に一番近いの船員室の寝台を使っていた。
機関長補佐と言っても、一般船員と同じで航行中の当直のローテーションにも入る。
当直は2時間の交代制で、当直が終わる時に航海日誌に天候や風速、緯度経度等を記入した後、当直が交代となる。
僕は機関部だっため、航海日誌を記入した後、機関日誌を記入する。
機関室で機関日誌に記入をした後、船体底部の後部にあるプロペラのシャフト下に溜まるビルジ(汚水)を、ビルジポンプを使い船外に排出し僕の当直は終わりとなる。
その日の僕の当直時間は20時~22時だった。
当直が終わり、交代要員を起してブリッジに戻り航海日誌を記入して、機関室に向かった。
機関室でメインエンジンの各温度計や分電盤のメーターのチェックをして、機関日誌に記入を終え、ビルジを確認した。
僕はビルジポンプのスイッチを入れ、ビルジが引いて行くのを確認し
ビルジの計測棒の最低点に達したのを確認してビルジポンプを止めた。
全く異常は見られなかった。
その後、船員室の自分の寝台に入り、設置してあるTVで1時間程ビデオを見て眠りについた。

リィィィィィィン!!!!!!

けたたましいベルの鳴り響く音で目が覚めた。
咄嗟に「機関室の警報機の音だ!」と思った。
僕は寝台を飛び出し、機関室に向かった。
機関室に向う途中、時計を見ると午前4時過ぎだった。
船は航行を続けていて、航行するためのメインエンジンは回り続けていたのでメインエンジン系の警報でないことはすぐに理解できた。
僕とほぼ同時に機関長が機関室に入ってきて、メインエンジンが設置されてある下部に駆け下りて行った。
機関室は冷凍機や造水機などが設置されている上部と、メインエンジンや発電機が設置されている下部の2階層になっている。
機関室内にはメインエンジンの轟音が鳴り響いているので、耳元で叫ばなければ人の声は聞こえない。
僕は機関長を追って、機関室下部に下りて行った。
階段を使い機関室の最下部に下りると、すでに海水でメインエンジンの3分の1に浸かっていた。
機関室の後部を見ると、船を動かすために回っているプロペラのシャフトが水を巻き上げていつのが見えた。
機関長は僕の耳元で「船を止めてこい!」と叫んだ。
僕は機関室の階段を駆け上がり、ブリッジに行き操舵機のレバーを引きエンジン回転数を落とし、クラッチを“停止”の位置にした。
船が停まると、船頭が船長室から飛び出してきて「どうした!?」と僕に聞いた。
僕は「機関室で浸水が起こってます!」と言った。
船頭は「原因は!?」と聞いた。
「わかりません、とにかく機関室に戻ります」と答え、僕は機関室に戻ろうとした時メインエンジンが完全に停止した。
メインエンジンを停止したのは、機関長だった。
メインエンジンが停まったので、機関室内はかなり静かになっている。
僕が階段を使い機関室下部に降りようとした時、下から「ケイジ!移動ポンプとホースもってこい!」と叫ぶ声が聞こえた。
僕は踵を返し、移動ポンプとホースが収納されている船首甲板の倉庫に駆けて行った。
その時、機関長が何をしようとしているのか?を瞬間的に理解した。
共に長い時間作業をし師匠の言葉や行動を見ていると、次に何をやろうとしているのかが大体把握できた。


僕は、右手に移動ポンプを持ち肩に30メートルのホースを2本担ぎ機関室入り口に移動ポンプを設置して配電盤のコンセントそ挿した。移動ポンプにホースを接続しホースの先端を持って機関室に入り、機関長に向かって「機関長!」と叫び機関室上部から下部に向かって下ろした。
機関長はホースの先端を持ち、機関室下部の後部に行き、僕に向かって左手の親指を立てて“OKサイン”を出した。
それを確認し機関室入口に行き移動ポンプのスイッチをONにした。
移動ポンプが作動し、勢いよく機関室に溜まった水を吸い上げ船外の海に排出しだした。
その頃には、異常に気がついた全船員が機関室の周りに集まっていた。
僕は「移動ポンプを全部もってきてくれ!」と、船員に指示をした。
数人の船員が船首甲板倉庫に向かった。
僕は、再度機関室に入って行き、機関室上部から下を覗き込んだ。
機関室下部には、まだ水が溜まっていた。
数分後、ある船員が「移動ポンプの用意できたぞ!」と僕に声をかけた。
移動ポンプは、僕が設置した物と他に3台、合計4台が設置されてあった。
僕は3本のホースの先端を機関室下部まで持って行き、ビルジ溜まりまで持って行き吸い込み口を浸水した海水の中に入れスイッチを入れるよう合図した。機関室に溜まった水は、徐々に減って行った。
幸い発電機はメインエンジンよりも少し高い台座の上に設置されていたため、多少海水で濡れはしたが完全に浸かることはなく機動をしており電気は確保できた。
問題は、海水に3分の1程浸かったメインエンジンだった。
1時間ほどして、浸水した海水の排出が完了し、機関長と二人で浸水の原因を探した。
僕と機関長は懐中電灯を手に、浸水している箇所を見つけ浸水の原因を確認した。
船底の最後尾、舵(かじ)の部分の外板の一部分が10cm程度欠落し、そこから海水が船内に侵入していると判明した。
船頭と機関長と僕は話し合った。
損傷の大きさは大したことはなかったが、海が荒れた場合、波浪によるダメージで損傷が拡大する可能性は非常に高い。
船はグァム島まで2昼夜の距離にあり、船頭は天気図のデータを基に航行海域は2~3日の間は晴天で海が荒れることはないことを確認した。
機関長は浸水量はかなり多いが、ビルジポンプを回し続け船外への排水を続ければ航行は可能と判断した。
それを聞いた後、僕は機関室に行きでメインエンジンの状況を確認した。
メインエンジンの3分の1が海水に浸かっていたため、メインエンジンのオイルに海水が混入した可能性が高く、そのためメインエンジンのオイルバスの洗浄やエンジン各所の洗浄とオイル交換が完了するまでメインエンジンは始動できないと判断し、その作業に24時間程度必要なことを船頭に伝えた。
それを伝えている時、機関長は黙ってうなずいて聞いていた。
「オイルはな、人間の体に例えると血と同じなんだ。人間も血が汚れると体のどこかが壊れるだろ。エンジンもオイルが汚れると、どこかがおかしくなってくる。」と機関長に教わったことがあった。
しかし、問題はグァム島に入港したとしても、浸水箇所の修繕は可能なのか?だった。
グァム島にも、船舶をドックするための設備はあるだろうが、日本の造船所などとは勝手が違うし、修繕に必要な設備が整っているのかも不明だった。
船には浸水等を止めるためのある程度の修理をする部品等は装備していたが、外板の損傷の場合、船の内部からだけでは完全に補修することはできない。
僕が泳いで破損箇所まで潜り、損傷した部分を外部から補修するという提案をしてみたが外洋の海流は速く、そのまま流されて行方不明になる危険性があり二次災害の可能性が高いという点から即却下された。
外板の修繕に関しては、船頭が無線で造船所に連絡を取りあい判断することになった。
まずは、船のメインエンジンのメンテナンスが最優先だ。
メインエンジンが動かせないと船は漂流状態になってしまう。
機関長は「とりあえず、コーヒーでも飲むか。コーヒー飲んで一息入れた後、作業に取りかかるぞ」と僕に言った。
機関長と二人でをブリッジの横に腰掛け、タバコを吸いながらコーヒーを飲んだ。
そのとき、ふと思った。

「もし警報機が鳴る前に発電機まで浸水していたら、電気が止まり船は暗闇に包まれ、対応できないまま沈没していたかもしれない」

板子一枚、地獄の底。

僕と機関長は、コーヒーを飲み終えると作業用のツナギに着替えた。
ツナギは機関士の戦闘服だ。ツナギの背中には「YANMAR」と書かれてあった。
機関長と二人で、機関室に入った。
機関長は、そのまま機関室下部のメインエンジンに向い、僕は工具が収められている工具台の引き出しから必要な工具を工具箱に入れ、メインエンジンに向った。
機関長は工具箱から工具を取り出し、エンジン上部のカバーを外し始め、僕はオイルを抜き取る作業に取りかかった。
オイルレバーの右側に小さな切り替えスイッチがあり、切り替えの種類は「潤環」「排出」の二種類がある。
僕は切り替えを排出にセットして、レバーを前後に押し始めた。
数十回レバーを前後に押すとレバーは軽くなり、オイルバスの中のオイルが約90%排出された。
それからオイル系のパイプをメインエンジンから取り外し、軽油の溜まったバケツに入れて洗浄した。
洗浄が終わり軽油を丁寧に拭き取って、メインエンジンに取り付けていく。
機関室内の気温が40度程あったため、僕は汗ダクの状態だった。
水を取りに船員食堂の賄い室に行き、2つのコップに水を入れ機関室に戻り機関長に「水です」と渡すと、機関長は喉を鳴らし一気に水を飲んだ。
機関長は水を飲み終わると、コップを僕に渡し作業を再開した。
オイルバスのカバーを取り外し、オイルタンクの中をできる限り軽油で洗浄しカバーを取り付け、新しいオイルを入れエンジンを始動する。
30分程アイドリングをして、エンジンを停止。
そして、また同じ作業をする。この作業を、5回行なった。
作業をしている間、2回の休憩と3度の食事を取った。
終わったのは、浸水が発生してから23時間後のことだった。
機関長はメインエンジンを始動し、計器類の示す値に異常がないことを確認し船は航行可能となった。
機関長と二人でブリッジに行き、船頭にそれを告げた。
その時船頭から、日本の船を製造した造船所から破損箇所を修繕するための作業チームがグァム島に来ることになり、グァム島で破損箇所の応急処置をした後、出港すると聞いた。
船頭が操舵機のレバーを”行進”の位置にすると船はゆっくりと動き始めた。
操縦桿を回し進路を南南東に向け、操舵機の回転数を上げると船は速度を上げ航行を再開した。
機関長が「ケイジ、ビルジ(浸水)を見て来い」と言った。
僕は、機関室に行きビルジを確認した。
プロペラシャフトの付け根辺りからかなりの量の浸水があったが、ビルジポンプが回り続けているため、ビルジ溜まりに海水は溜まっていなかった。
確認が終わると僕はブリッジに戻り、それを船頭と機関長に伝えた。
ビルジポンプが故障した時を想定して、移動ポンプとホースは機関室入り口にいつでも作動できうるようセットされてあり、当直員は当直の間の30分置きに、機関室の浸水状況を確認するよう船頭から全船員に告げられた。
僕は機関長に「先に風呂に入って休んでください。俺は、もう少しビルジの状態を見てから休みます」と言った。
機関長は「ああ、任せたぞ次期機関長」と、汗とオイルにまみれて黒くなった顔で笑いながら、僕の肩をポンッと叩き船尾にある風呂に向った。
僕は、機関室に戻りビルジ溜まりのところに座り浸水を確認していた。
その時なぜだかエンジンの轟音が心地よくて、余りの心地よさに「このままでいいや」と思った。
肩を揺すられ起こされた。
揺らす先を見ると起こしたのは兄だった。
改めて損傷箇所を確認すると、浸水量は30分前と変わっていない。
僕は機関室から出て、タバコを一本吸った。
幸い、海は穏やかで快晴だった。
海面は滑らかで、鏡のように空の青と雲が海面に映っていた。


再会の島

2日後、船は無事グァム島に入港した。
入国の審査を終えると、すぐに日本の造船所から来た作業チームが船に乗り込んで来て破損箇所の確認を始めた。
修繕方法を検討し、修繕には3日間を要すと結論が出た。
船頭から「修繕は作業チームに任せて、2日間を完全休業にする」と、船員に告げられた。
新造船で処女航海で起こった事故で、船員のモチベーションが下がっているのを気にかけての休暇だった。
船頭から臨時入港金として船員に$500が配られた。
僕は港の倉庫の中にある事務所に行き、電話を借りて番号を押した。
「Hello」と電話の向こうから聞こえてきた。
電話に出たのはジュリアのお母さんがだった。
ジュリアは大学生で平日のため、学校に行っているのは承知だったが入港したことをいち早く伝えたかった。
「こんにちは。ケイジです」と言うと、「あら、入港したの!?」とお母さんは嬉しそうな声で応じてくれた。
僕は「はい、さっき入港しました。ジュリアにコマーシャルポートで待ってると伝えてもらえますか?」と告げると「いいわよ、伝えておくわ!今晩はうちに食事にいらっしゃい」と、食事に招待してくれた。
陽が西に傾きかけた頃、倉庫の事務所からウェリット社長の息子のディヴィッドJr.が「ケイジ!ジュリアがゲートに来てるぞ!」と、船までやってきて僕に言った。
僕は彼をJ(ジェイ)と呼んでいて、彼は流暢な日本語を話した。
僕とJは、僕が以前グァム島で起こしたフィリピン人不法就労者傷害事件以来、親友となっていた。
事件を起こした翌日、船に戻った時に彼の方から僕に声を掛けてきた。
「お前ガッツあるな」
僕は二コリと笑って表情だけで答えた。
するとJは「俺は日本人の血が半分入ってる、お前を誇りに思うよ」そう言いながら、拳を僕に向けた。
それに対して僕も、拳をジェイに向けジェイの拳と僕の拳はコツンと音をたてた。


アメリカ人らしい表現だなと思った。
コマーシャルポートのセキュリティゲートまで、仕事用フォークリフトでJに送ってもらった。
セキュリティゲートの出入時には駐在するポリスに必ずパスポートの提示が義務付けられており、その時「どこにいくのか?」「なにをするのか?」等、簡単な質問をされる。
もちろん少しでも怪しい行動をする者は、ゲートを通してもらえない。
しかし僕の場合は、事件以来パスポートの提示を求められることは無かった。
僕がセキュリティゲートの前に立ち、ゲートの外を指さして「出てもいいか?」とゼスチャーをするとポリスは顎で「行けよ」と言う感じ合図した。
顔パスである。
これには当時グァム島内での民族間の問題が背景にあった。
グァム島の原住民であるチャモロ族とフィリピン人は、同じマイクロネシア系の人種に属するが、当時のフィリピンは国際的に世界最貧国の一つで、マルコス大統領の独裁政権下にあり国内の情勢も不安定で働く場所もなかった。
そのためフィリピンから海外への出稼ぎ労働者が多かった。
その頃、フィリピンから日本にくる出稼ぎ労働者は“ジャパゆきさん”と呼ばれていた。
フィリピンとアメリカとの国際関係や、フィリピンの第二母国語が英語でフィリピン人の大半が英語を喋れること、グァム島とフィリピンの距離が近いこと、比較的フィリピン人のグァム島での就労ビザが取得し易く入国も簡単にできたことなどの要因から、フィリピンからの労働者の流入が多くなっていて、原住民であるチャモロ族の就労が脅かされていた。
そして就労ビザではなく観光ビザで入国し、そのまま不法滞在する者も非常に多く、そうした不法滞在者はアメリカのIDを持たないため、定職につけるはずも無く、日雇い労働や重労働などの労働者か仕事の無い者はドラッグの売買など裏の仕事をするギャングと化してグァム島の治安の悪化の元凶となっていた。
フィリピン人達にとっては、母国でその日に食べる食糧に困る生活よりは遥かにマシなのである。
ギャング化した不法就労フィリピン人は、フィリピンからのグァム島へのドラッグの密売を主な収入源として勢力を拡大していた。
フィリピン航空の飛行機のタイヤから、大量のコカインが発見された事件もこの頃発生した。
そう言った背景から、グァム島原住民のチャモロ族はグァム島の治安を乱すフィリピン系ギャングに対してとてもナーバスになっていた。
僕が暴力事件を起こした相手がフィリピン人不法就労者でフィリピン系ギャングの一員で窃盗犯あり、殴って病院送りにした上逮捕に貢献したとチャモロ族系住民に受け取られ、いつの間にか僕は周りのチャモロ族の間で噂になっていたらしい。
ゲートを抜けると、白いピックアップトラックにもたれブロンドの髪を潮風になびかせ、グリーンの瞳で微笑むジュリアが立っていた。
近寄って行き「久しぶりだね」と僕が声をかけると「そうね」と言って抱きついてきた。
ジュリアとは約一年振りの再会だった。
車に乗り込み、ジュリアの家に行くとお母さんが豪華な食事を作ってくれていた。
お父さんはハワイで開かれる会議に出席するため出張中だった。
お母さんが「今夜はジュリアの部屋に泊まるといいわ。お父さんが作った二人が一緒に寝らないというルールは一旦休止よ。」とウィンクしながら言った。
お母さんは、僕たち二人に対して寛容だった。
休暇中の二日間、僕とジュリアはずっと一緒に過ごした。
休暇が終わる前日の深夜。
ジュリアは僕の胸の中で言った。
「前になんで俺なのか?って聞いたよね。覚えてる?」
「ああ、覚えてるよ。今でもそう思ってる」と答えた。
「あなたといるとね。包み込まれる気がするの。すごく優しくね。見つめられてるとね、優しさに包まれてる気がしてくるの」
「自分では、よくわかんないや」と、ぶっきら棒な言い方をして僕は照れくさいのを誤魔化した。
「あなたはとても器用な人よ。どこにいても、何をやっても生きていける気がするわ」
「そうかな、自分ではそんな風には思えないけど」と、僕が答えると「もっと自分を信じて」と言った。
「君が大学を卒業したら、一緒に暮さないか」
口をついて出た言葉だった。
何を考えていたわけではない、ただずっと一緒にいたいと思った。
彼女は笑って「船をやめて陸で働いてくれる?」と、僕の顔を覗き込んだ。
僕は戸惑った。それは表情にも明らかに現れていたのだろう。
“船をやめる”なんて、思ってもいなかった。
ジュリアは、そんな僕の顔をみてイタズラな顔で「無理でしょ」と笑った。
「でも、一緒にいたいのは同じよ」と、僕の胸に顔をうずめて言った。
翌日の昼過ぎに僕は船に戻った。
船は破損箇所の修繕の確認のため、二時間程グァム島周辺を試運転航行した。
空はドンヨリと曇り、雨季の到来を告げる低く暗い雲で覆われていた。
破損個所からの浸水はなく、修繕は完了していた。
再度岸壁に接岸し、日本の造船所から来た修理チームを下船させ出港申請を管理局に申請し、1時間程で出港の許可が下りた。
船は、改めて処女航海に出港した。

別怪の海

新造船の処女航海は、まずまずの漁に恵まれた。
操業21日、満船。
グァム島へ向けて帰港をしている途中。
怪物君からこの航海で船を降りて、他の船に移ると聞かされた。
訳を聞くと「グァムにはソープランドとパチンコ屋がないから」というとても怪物君らしい答えが返ってきた。
共に過ごしたマグロ船での4年間。
彼は、僕が新人の頃からすごく可愛がってくれた。
漁師を絵に書いたような人で、キャバクラのお姉さんに「好き」と言われれば本気になり、金を貢げるだけ貢ぎ、キスもさせてもらえずにフラれては落ち込む。
風俗のお姉さんに“イク”と言われ、それを真に受けて「俺は風俗嬢をイカせた」と豪語し、丸太のような上腕を持ち、胸板がぶ厚く腕が太すぎるためTシャツが着れずに常にタンクトップ。
「女の爪で背中をガリッ」っとされるために、チンチンを濡れたタオルで鍛えるも、一緒に乗船した4年間で一度も背中の傷跡を見たことは無い。
女遊び以外の遊びは、怪物君に教わった。
グァム島に入港した翌日、水揚げした後怪物君は飛行機で日本に帰国した。
不思議と、あまり寂しさは感じなかった。
寂しさよりも、感謝の念の方が強かったのを覚えている。
今回の入港は、船の修繕に費やした日数を取り戻すため2泊3日だった。
入港してから2日後の出港に向け、機械整備や燃料補給、餌の積み込み、食料品の買い出し等、出港する前夜まで作業や準備に追われた。
全て終わり時計を見ると、すでに時計は23時を過ぎていた。
翌朝、入国管理局からの出港許可がおりた後船はすぐに出港した。
ジュリアには会えなかったが、Jがジュリアからのメッセージカードを預かっていて、「気を付けて、待ってるよ」とだけ書かれたあった。
一言だけだが、それ以上の言葉は必要なかった。
彼女の優しさと思いやりが、十分伝わってきた。

つづく

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